ぼくら(1/4)
2021.09.23.Thu.
※挿入ってない(初出2009年?)
ここは劇団「ぼくら」の稽古場。看板俳優の遠藤理久が、次回公演の見せ場である長台詞を完璧に言い終わり、台本上、暗転となったところで休憩に入った。
「おい、雑用! 俺のドリンク持って来い!」
一番下っ端の僕は慌てて長テーブルの上から遠藤さんのドリンクを探し出し持って行った。受け取った遠藤さんは、「気がつかねえ新人だな。先輩の一挙手一投足を見逃すんじゃねえよ、バカ。言われる前に気付け。わかったか、ウスノロ!」と怒鳴る。
「ハイ! すみませんでした!」
バカと言われようがウスノロと言われようが、入団一年目の僕は頭をさげるしかない。
遠藤さんは看板俳優だけあって見た目のカッコ良さもずば抜けていたが、何よりその演技力は群を抜いていた。大学時代、たまたま見た「ぼくら」の舞台、僕はこれで一瞬でヤラれてしまった。
その舞台は特攻隊として戦争へ行く若者三人の話で、出兵前夜のそれぞれの行動を描いた、衝撃的で、悲しい物語だった。
遠藤さんが演じたのは、好きな女の子と夜中に待ち合わせるのだが、何時間待っても彼女は来ず、最後の逢瀬すら果たせないまま、失意と絶望の中、首を吊って自殺してしまう青年の役だ。
その演技は本当に素晴らしかった。翌朝、仲間によって死体が発見されるのだが、その顔は本当に死んでいるように見えゾッと寒気を感じた。他の観客もハッと息を飲んでいた。
遠藤さんの演技に、「ぼくら」の舞台に惚れ込み、僕は決まっていた内定を蹴って、劇団「ぼくら」の門扉を叩いたのだった。
忘れもしない半年前。緊張と興奮でテンパリながら、僕は稽古場の扉を開け、「入団させて下さい!」と土下座した。シンと静まり返る稽古場。みんなの視線が僕に集まる。僕は「やっちまったか」と冷や汗を流す。
「名前は」
口を開いたのは遠藤さんだった。舞台で見た遠藤さんは、やせ細って悲壮感漂う地味な印象だったが、実際の遠藤さんはソフトな外見で華やかな雰囲気の人だった。さすが俳優、役によって、いろいろ使い分けるのだろう。
憧れの遠藤さんが僕に話しかけてくれた、そのことに舞い上がり、僕はまた大声で「折尾啓二です!」と叫んでいた。
遠藤さんがゆっくり僕に近づいてきた。端整な顔が目の前までやってきて、僕の頭からつま先までじっくり見、
「俺より背が高くて男前の奴は入れないことにしてるんだ。だからお前は合格。入れてやるよ。予定がないなら今日から稽古見て行け」
ポンと僕の肩を叩いてまた稽古に戻っていった。
入れてもらえたと喜んだのも束の間、つまり僕は男前じゃないと言われたんだと気付いて軽いショックを味わっていると、苦笑を浮かべる黒縁眼鏡の人がやってきて、
「そういうことみたいだから、これからよろしく、折尾君。俺は井出直人」
右手を差し出してくる長身を見上げ、この人知ってる、と思い出した。あの舞台で首を吊った遠藤さんの第一発見者だ。木から遠藤さんをおろし、その亡骸を抱きしめて慟哭する演技が真に迫っていて、僕も一緒に泣いてしまったほどだ。
井出さんは舞台の上とあまり印象がかわらない、優しく真面目そうな人だった。
二人は同じ大学の演劇部だった。大学を卒業後、コピー機の営業をしていた遠藤さんを井出さんが一年かけて説得し、劇団「ぼくら」を旗揚げしたのだそうだ。やるからには本気でてっぺんを目指す、と仕事もやめてしまったのだから、二人の意気込みは相当のものだったのだろう。
僕はこの劇団のプロフィールを熟読してすっかり暗記しているので、遠藤さんや井出さんの生年月日まで空で言える。ファンというより、マニアだ。
「理久、またお前のファンが来てるぞ」
と、扉を指差したのは、初期メンバーの一人、俳優兼大道具の正木さん。坊主頭でガタイがいい。
「ダメダメ、すぐに再開すんだから」
遠藤さんはヒラヒラ手を振ったが、
「ファンサービスも大事な仕事。中に入れてあげて」
井出さんのOKが出たので、正木さんは外で待つファンという女の人二人を招きいれた。舌打ちして顔を歪めた遠藤さんだったが、すぐ爽やかな営業スマイルを浮かべ、入ってきた二人に両手を広げた。
「ありがとう、来てくれて嬉しいよ!」
毎度のことながらこの変わり身の早さには感心する。
遠藤さんの外面の良さを初めて目の当たりにした時は驚いたものだ。というより、内面が悪すぎると言うべきか。
外見に似合わず口が悪くて態度もでかい。特に新入りの僕への仕打ちはイジメかイビリか、という位だ。入団した僕への洗礼だと甘んじて受けているが、井出さんのフォローがなかったら半年だって続けられなかったかもしれない。
「直人、こっち来いよ」
井出さんが遠藤さんに呼ばれた。女性二人が黄色い歓声をあげる。「ぼくら」で一番人気があるのはダントツで遠藤さん。次に井出さんと、今ここにはいない現役高校生の菅原真里君。「ぼくら」には男しかいない。そのせいか入る客も八割が女性だ。
他の劇団員は、各々の台詞や立ち回りのチェックをしていた。僕は出番のない雑用なので、壁際に立ってぼんやりしていた。
「おい! 新人! こっち来い!」
遠藤さんに僕も呼ばれた。小走りで行くと「これ、見てみろ」と薄い本を渡された。
「彼女たちが描いた俺と直人のドージンシだってさ。読んでみろ」
「あ、はい」
ページをめくると少女マンガのような遠藤さんと井出さんが出てきて吹き出しそうになった。しかもこの二人、だんだん怪しい展開に……
「ここから、声に出して読んでみろ」
遠藤さんが指差した場所は、井出さんが遠藤さんに告白する場面だった。
「ええ、よ、読むんですか?」
「聞き返さない。さっさと読む!」
厳しく言われて、僕はこれも稽古だと思って諦めることにした。
「理久、俺はお前のことがずっと好きだったんだ、お前を誰にも渡したくない!」
うわー、なに、この恥ずかしい台詞。僕の顔が真っ赤になる。遠藤さんはニヤニヤ笑ってそんな僕を見ている。井出さんはいつもの困ったような苦笑い。女性二人はキャッキャッ笑って喜んでいる。他の劇団員も何事かと僕たちを見ている。
「な、直人? なにを言い出すんだ? ギュッ! 理久! 直人!」
「もっと感情をこめろ、ヘタクソ」
と、遠藤さん。
「もう我慢出来ない! ごめん、理久! ドサッ、あっ、直人、なにをするんだ! スル、アッ! ど、どこ触ってんだよ……、遠藤さん、まだ、読むんですか?」
「俺がいいと言うまでだ」
腕を組んでニヤニヤ笑う。趣味悪いよ、こんなの朗読させるなんて……。この先は二人の濡れ場だった。それをわかっているから僕に読ませてるんだ。井出さんに助けを求める目を向けたが、
「初見で感情をこめて読むのもいい練習になるよ」
と、ニッコリ笑うだけだった。仕方なく続きを読む。
「や、やめろ、直人、そんなとこ……アッ、こっちは嫌がってないみたいだよ、理久……クチュクチュ……直人、やめ……やめてくれ…あぁっ…可愛いよ、理久、メチャクチャにしたくなる……あぁ、直人、直人、もうやだっ……あぁ、んっ……」
「はい、ストーップ」
パンパン、と遠藤さんが手を叩いた。終わった、と僕はほっとする。恥ずかしくて顔が火照り、びっしょり汗をかいていた。まわりからクスクス笑いが聞こえた。もーヤダ。
「萎えるわ、ヘタクソめ、そんなんで興奮できるか、バカ」
遠藤さんが本を取り上げ、それでパシンと僕の頭を叩く。自分が読ませたくせに。
「耳障りなもの聞かせてゴメンね。こいつ、新入りで、素人以下のクズなんだ」
優しい声で甘く微笑む。ファンの二人はうっとりそれに見惚れていた。この口と性格の悪ささえ改善できれば申し分ないのにな、遠藤さんって。
「じゃあ、俺たちは練習するから。君たちは寄り道せずにまっすぐ家に帰るんだよ。ナンパされてもホイホイついてっちゃ駄目だよ」
遠藤さんは二人を出口まで見送り、
「また新しいドージンシが出来たら見せてね。今度は俺と直人で読んであげるよ」
と手を振って二人を送り出した。バタン、と扉を閉め、ガチャッと鍵をおろし、はぁーと溜息をつく。
「よし、練習再開!」
振りかえった遠藤さんの表情は一変して厳しいものにかわっていた。それだけで稽古場の雰囲気が引き締まるからスゴイ。
休憩前までやっていた場面の続きから。みんながそれぞれの持ち場につく。
練習が終わったのは日付がかわる直前だった。
次の舞台公演まで一ヶ月を切った。台詞や動作の細かい手直し、音楽や照明の打ち合わせなど、だんだん内容を煮詰めていく。
劇団「ぼくら」にはパトロンがついている。次の公演を行う小劇場「オペラ座館」のオーナーがそうだ。誰もオーナーに会ったことはない。連絡の窓口になっている井出さんも、その声すら聞いたことがないという。連絡を寄越すのはいつも秘書と名乗った若い男で、最初「ぼくら」のスポンサーになりたいと言って来たのもその男なのだそうだ。
スポンサー契約をしたものの、向こうはただお金を出すだけで企業名を名乗らない。定期的に「ぼくら」の舞台が見られるならそれで構わないと言うのだ。どこの足長おじさんか知らないがたいした道楽だと思う。しかし「ぼくら」の舞台に惚れるとはなかなか見る目がある。そしてなかなか、センスも良い。
オペラ座館はその名から連想する通りパリのオペラ座を模して作られた劇場だった。もちろん規模は縮小されているし、中の構造もオリジナルだが、外観も内装もこだわり抜かれた装飾で、中に足を踏み入れた者から言葉を奪ってしまう迫力がある。
先日初めてこの劇場を知った僕も思わず感動した。これだけでオーナーの足長おじさんに好感を持った。
オペラ座館の舞台を踏めるのは限られた者だけだ。足長おじさんが気に入った劇団しか利用を許可されない。オペラ座館で公演したことがあるということが一つのステータスになっていた。
そことスポンサー契約している「ぼくら」は、業界で大注目の劇団ということになる。そこに入れた僕はなんてラッキーなんだろうと今更ながら喜びを噛み締めた。
もうすぐ本番なのでオペラ座館での練習がメインになる。僕も皆も最高の作品を作るために朝から晩まで練習に明け暮れた。
期末テストを終えた現役高校生の菅原君も合流した。彼は目を見張る美少年で、たまたま「ぼくら」の舞台を見に来ていたところを遠藤さんにスカウトされたらしい。彼だけは特別待遇で、とりあえず今は学業優先ということで、遅刻も欠席もなんでもあり。
遠藤さんがそれを許したので、他の誰も文句を言わない。それに菅原君は声が素晴らしく綺麗で、おまけに美少年ときているから、舞台に立っただけで観客を魅了してしまう天賦の才能を持っていた。
前の公演はローマの兵士と奴隷の話だったのだが、奴隷役の菅原君が舞台に登場しただけで会場のあちこちから感嘆の溜息が聞こえた。
この舞台のために三ヶ月かけ体を作り上げた兵士役の遠藤さんと菅原君が接近し、並んで立った時は、妖しいまでに美しい二人に場内が騒然となったほどだ。
菅原君は土日祝など学校が休みの日限定で舞台に立っている。高校を出たら大学へ進むらしいが、大学卒業後は「ぼくら」で本格的に舞台をやれ、と遠藤さんから誘われている。菅原君はそれを曖昧にはぐらかしている。クズだのノロマだの言われている僕からしたら、そんなに熱心に誘われるのは羨ましい限りだ。
菅原君を入れて通しで稽古が始まった。演出を手がける井出さんが客席から駄目出しをする。井出さんが遠藤さんに駄目出しをするところは一度も見た事がない。それだけ二人の息はピッタリでお互いを信頼しあっているのだ。
素晴らしい舞台になるだろう。練習を見ていたらそんな予感に体が震えてきた。出番を待つ菅原君が武者震いする僕に気付いて「折尾さん、震えちゃってどうしたんです」と声をかけてきた。
僕より先輩なのに年上だからという理由で敬語を使ってくれる。僕も敬語で話しかけていたらタメ口でいいですよと言ってくれた。性格もいい子なので僕はこの子が好きになった。
「だって今にもお客さんの拍手と歓声が聞こえてきそうで」
震える手を菅原君に見せた。
「今からそんなに興奮してどうするんです。まだ始まってもいないのに」
クスッと笑って菅原君が僕の手を両手で包みこんだ。細くしなやかな指。思わずドキリとしてしまう。ドカドカと足を踏み鳴らし、舞台袖にはけてきた遠藤さんがバシンと僕の頭を叩いた。
「新入りのくせにおしゃべりとは、いい度胸だ。そんなにつまらないか?」
「ちっ、違いますよ!」
慌てて否定すると、まわりから「シーッ、静かに」と注意された。声をひそめ、
「逆に緊張して震えてるくらいなんですから」
「緊張したらマリとイチャつきたくなるのか、お前は?」
「い、いちゃついてなんて!」
「マリじゃなく、マサトですよ。その呼び方、やめてくれません」
隣で菅原君が不満そうに言う。真里なのでマリ。そう呼ぶのは遠藤さんだけだ。菅原君は、何度もやめて欲しいと言っているのに遠藤さんはやめない。そういう性格の人だからだ。
僕と菅原君を無視して、遠藤さんはまた舞台へ戻って行った。一旦舞台に立つとまるで別人になってしまうから本当に遠藤さんは役者に向いているのだと思う。容姿端麗で才能もある。それを見抜いたから井出さんも一年かけて遠藤さんを誘ったのだろう。
「ほんと遠藤さんって人の言うこと聞かないですよね」
呆れたように菅原君が言った。僕は苦笑する。
「だけど名前で呼ばれるだけ羨ましいよ。俺なんて新入りとか雑用係って言われて、いまだに名前を呼ばれたこと一度もないよ」
「ほんとですか? 人としてどうかしてるよ、あの人」
と腰に手を当てた菅原君が溜息をついた。こうやって僕の愚痴を聞いてくれる存在がいるだけでだいぶ心が慰められる。
午前中の稽古が終わり、昼休憩になった。みんなが外へ出かけ、オペラ座館に一人残った僕はポツンと舞台の真ん中に立っていた。
オペラ座館の座席数は400ちょっと。二階にボックス席が一つあるが、そこはオーナー専用なのだそうだ。公演があるとそこから観劇しているらしいが、その姿を見たものはいない。オペラ座の怪人みたいで素敵じゃないか。そこへ通じる道は誰も知らない、見つけられない。そういうところも謎めいていて、ますますこのオペラ座館が好きになった。
いつか僕もこの舞台に立ちたい。観客を前に演技をしたい。僕が味わった感動を今度は僕がお客さんに与えたい。
コホンと咳払いし、発声練習をする。稽古場でするのとは気分が違う。いつもより声が出ている気がする。調子付いて練習に熱が入る僕の耳に、
「ホラ、猫背になっているぞ」
低い男の声が聞こえた。一瞬、空耳かと思ったが、
「やめないで続けたまえ」
また男の声が聞こえ、僕は当たりを見渡した。団員が戻ってくるにはまだ早い。ここには管理のひと以外誰もいないはずだ。その人は初老のおじさんで、こんな低く落ち着いた声じゃなかった。
「誰ですか」
なんだか不気味になり声をかけた。
「そんな無粋な質問をするのか。ここをどこだと思っているのだ?」
芝居がかった大仰な言い方をする。やはり劇団の誰かだろうか。しかし声に聞き覚えはなかった。
「あなたは誰ですか。ここはいま僕たちが借りてるんです。関係者以外、立ち入り禁止なんですよ」
恐る恐る姿を見せない誰かに向かって言った。
「私は君たちの関係者ではないがここにいる権利を有する者だ」
遠くから響いてくるような声がそう告げる。もしかしてオーナーだろうか。そう問うと声はカラカラと笑った。
「ここはオペラ座だ。私はファントムと呼ばれることを好んでいる。出来れば君にもそう呼んでもらいたい」
やっぱりオーナーなんだ。金持ち爺さんかと思っていたけど、声はまだ若い……四十代位、だろうか。
「失礼しました。ファントム、僕に姿を見せてはくれないんですか」
「今はその時ではない。君も聞き知っているだろう、私がどんな醜い貌をしているのかを」
僕はファントムとの会話がだんだん楽しくなってきた。オペラ座館という場所が、この即興の小芝居を違和感なく成立させていた。遊び心のあるオーナーに親近感と好意を抱いた。
「では、いつになったら僕に会ってくれるんですか」
「焦りは禁物だ。君、焦りは禁物だよ。時がくれば私から君に会いに行こう」
「ほんとですか?」
「あぁ、約束しよう。明日、みんなが集まる前にここで待っていなさい。私が直々にレッスンをつけてやろう」
もしかしたらオーナーも舞台経験者なのかもしれない。レッスンには期待していなかったが、明日もまたオーナーと話が出来るのだと思うと今から楽しみだった。
「待ってます。必ず来てくださいね」
ファントムから返事はなかった。もうここにはいないのだろうか。二階のボックス席を見上げる。そこにも人影はない。しばらくあたりをキョロキョロしていたら、井出さんが舞台の上手から姿をあらわした。
「どうしたの、キョトンとした顔をして」
「あ、いえ……。井出さん、誰かに会いました?」
「どういうこと?」
「ここの劇場で、管理のおじさん以外に誰か見かけました?」
「見てないけど……、怖いこと言うね。やめてよ、俺、そういうの苦手なんだから」
怯えたように井出さんが自分の肩を抱きしめた。
騒がしい声とたくさんの足音を響かせて、昼食を済ませた皆も戻ってきた。
短い打ち合わせのあとまた通しの稽古が始まった。
この劇場にファントムが隠れていることは僕しか知らない。今もどこかで僕たちを見ているのかもしれなかった。僕は一人、姿を隠してしまったファントムを思い出してニヤニヤと笑っていた。ファントムは僕に話しかけてきた。僕はファントムに選ばれたクリスティーヌ・ダーエなんだ。この平和な日本のオペラ座館で血なまぐさい殺人が起きるはずはないが、誰も見た事がないオーナーと密会の約束をした、ということだけで胸が高鳴るというものだ。早く明日にならないかなぁ。
「なにニヤついてんだ、新人。気持ち悪い奴だなぁ」
出番を待つ遠藤さんが顔を顰めた。僕は慌てて顔を引き締める。
「俺に何かあった時はもしかしたらお前が代役を務めることになるかもしれないんだぜ。集中してみてろよ、バカが」
「ぼ、僕が、遠藤さんの代役なんて、そんな……!」
「本気にするなボケ。お前にやらせるよりそこらへんのおっさんにやらせた方が百倍マシだ」
吐き捨てるように言って遠藤さんは舞台へ出て行った。ヒドイ。いくら僕が演技の経験がないズブの素人だとは言え、あんな言い方しなくたっていいじゃないか。
プルプル震える僕の肩を正木さんがポンと叩いた。苦笑を浮かべ、
「お前、いい声持ってるし、そこらへんのおっさんよりはマシだと、俺は思うよ」
「……正木さん、それ、あんまりフォローになってないんですけど……」
ハハッと笑い、正木さんは自分の坊主頭を撫でた。
まぁ僕の実力は置いておいて、今は稽古に集中しよう。遠藤さんの代役は転地がひっくり返ってもないが、先輩たちの演技を見るのはいい勉強になる。
練習は20時過ぎに終わった。井出さんと遠藤さん、正木さん、小道具の高遠さんの四人はオペラ座館に残って打ち合わせ。他のメンバーはそれぞれ帰路についた。僕は本屋に寄って、ガストン・ルルーのオペラ座の怪人を買って帰った。
ここは劇団「ぼくら」の稽古場。看板俳優の遠藤理久が、次回公演の見せ場である長台詞を完璧に言い終わり、台本上、暗転となったところで休憩に入った。
「おい、雑用! 俺のドリンク持って来い!」
一番下っ端の僕は慌てて長テーブルの上から遠藤さんのドリンクを探し出し持って行った。受け取った遠藤さんは、「気がつかねえ新人だな。先輩の一挙手一投足を見逃すんじゃねえよ、バカ。言われる前に気付け。わかったか、ウスノロ!」と怒鳴る。
「ハイ! すみませんでした!」
バカと言われようがウスノロと言われようが、入団一年目の僕は頭をさげるしかない。
遠藤さんは看板俳優だけあって見た目のカッコ良さもずば抜けていたが、何よりその演技力は群を抜いていた。大学時代、たまたま見た「ぼくら」の舞台、僕はこれで一瞬でヤラれてしまった。
その舞台は特攻隊として戦争へ行く若者三人の話で、出兵前夜のそれぞれの行動を描いた、衝撃的で、悲しい物語だった。
遠藤さんが演じたのは、好きな女の子と夜中に待ち合わせるのだが、何時間待っても彼女は来ず、最後の逢瀬すら果たせないまま、失意と絶望の中、首を吊って自殺してしまう青年の役だ。
その演技は本当に素晴らしかった。翌朝、仲間によって死体が発見されるのだが、その顔は本当に死んでいるように見えゾッと寒気を感じた。他の観客もハッと息を飲んでいた。
遠藤さんの演技に、「ぼくら」の舞台に惚れ込み、僕は決まっていた内定を蹴って、劇団「ぼくら」の門扉を叩いたのだった。
忘れもしない半年前。緊張と興奮でテンパリながら、僕は稽古場の扉を開け、「入団させて下さい!」と土下座した。シンと静まり返る稽古場。みんなの視線が僕に集まる。僕は「やっちまったか」と冷や汗を流す。
「名前は」
口を開いたのは遠藤さんだった。舞台で見た遠藤さんは、やせ細って悲壮感漂う地味な印象だったが、実際の遠藤さんはソフトな外見で華やかな雰囲気の人だった。さすが俳優、役によって、いろいろ使い分けるのだろう。
憧れの遠藤さんが僕に話しかけてくれた、そのことに舞い上がり、僕はまた大声で「折尾啓二です!」と叫んでいた。
遠藤さんがゆっくり僕に近づいてきた。端整な顔が目の前までやってきて、僕の頭からつま先までじっくり見、
「俺より背が高くて男前の奴は入れないことにしてるんだ。だからお前は合格。入れてやるよ。予定がないなら今日から稽古見て行け」
ポンと僕の肩を叩いてまた稽古に戻っていった。
入れてもらえたと喜んだのも束の間、つまり僕は男前じゃないと言われたんだと気付いて軽いショックを味わっていると、苦笑を浮かべる黒縁眼鏡の人がやってきて、
「そういうことみたいだから、これからよろしく、折尾君。俺は井出直人」
右手を差し出してくる長身を見上げ、この人知ってる、と思い出した。あの舞台で首を吊った遠藤さんの第一発見者だ。木から遠藤さんをおろし、その亡骸を抱きしめて慟哭する演技が真に迫っていて、僕も一緒に泣いてしまったほどだ。
井出さんは舞台の上とあまり印象がかわらない、優しく真面目そうな人だった。
二人は同じ大学の演劇部だった。大学を卒業後、コピー機の営業をしていた遠藤さんを井出さんが一年かけて説得し、劇団「ぼくら」を旗揚げしたのだそうだ。やるからには本気でてっぺんを目指す、と仕事もやめてしまったのだから、二人の意気込みは相当のものだったのだろう。
僕はこの劇団のプロフィールを熟読してすっかり暗記しているので、遠藤さんや井出さんの生年月日まで空で言える。ファンというより、マニアだ。
「理久、またお前のファンが来てるぞ」
と、扉を指差したのは、初期メンバーの一人、俳優兼大道具の正木さん。坊主頭でガタイがいい。
「ダメダメ、すぐに再開すんだから」
遠藤さんはヒラヒラ手を振ったが、
「ファンサービスも大事な仕事。中に入れてあげて」
井出さんのOKが出たので、正木さんは外で待つファンという女の人二人を招きいれた。舌打ちして顔を歪めた遠藤さんだったが、すぐ爽やかな営業スマイルを浮かべ、入ってきた二人に両手を広げた。
「ありがとう、来てくれて嬉しいよ!」
毎度のことながらこの変わり身の早さには感心する。
遠藤さんの外面の良さを初めて目の当たりにした時は驚いたものだ。というより、内面が悪すぎると言うべきか。
外見に似合わず口が悪くて態度もでかい。特に新入りの僕への仕打ちはイジメかイビリか、という位だ。入団した僕への洗礼だと甘んじて受けているが、井出さんのフォローがなかったら半年だって続けられなかったかもしれない。
「直人、こっち来いよ」
井出さんが遠藤さんに呼ばれた。女性二人が黄色い歓声をあげる。「ぼくら」で一番人気があるのはダントツで遠藤さん。次に井出さんと、今ここにはいない現役高校生の菅原真里君。「ぼくら」には男しかいない。そのせいか入る客も八割が女性だ。
他の劇団員は、各々の台詞や立ち回りのチェックをしていた。僕は出番のない雑用なので、壁際に立ってぼんやりしていた。
「おい! 新人! こっち来い!」
遠藤さんに僕も呼ばれた。小走りで行くと「これ、見てみろ」と薄い本を渡された。
「彼女たちが描いた俺と直人のドージンシだってさ。読んでみろ」
「あ、はい」
ページをめくると少女マンガのような遠藤さんと井出さんが出てきて吹き出しそうになった。しかもこの二人、だんだん怪しい展開に……
「ここから、声に出して読んでみろ」
遠藤さんが指差した場所は、井出さんが遠藤さんに告白する場面だった。
「ええ、よ、読むんですか?」
「聞き返さない。さっさと読む!」
厳しく言われて、僕はこれも稽古だと思って諦めることにした。
「理久、俺はお前のことがずっと好きだったんだ、お前を誰にも渡したくない!」
うわー、なに、この恥ずかしい台詞。僕の顔が真っ赤になる。遠藤さんはニヤニヤ笑ってそんな僕を見ている。井出さんはいつもの困ったような苦笑い。女性二人はキャッキャッ笑って喜んでいる。他の劇団員も何事かと僕たちを見ている。
「な、直人? なにを言い出すんだ? ギュッ! 理久! 直人!」
「もっと感情をこめろ、ヘタクソ」
と、遠藤さん。
「もう我慢出来ない! ごめん、理久! ドサッ、あっ、直人、なにをするんだ! スル、アッ! ど、どこ触ってんだよ……、遠藤さん、まだ、読むんですか?」
「俺がいいと言うまでだ」
腕を組んでニヤニヤ笑う。趣味悪いよ、こんなの朗読させるなんて……。この先は二人の濡れ場だった。それをわかっているから僕に読ませてるんだ。井出さんに助けを求める目を向けたが、
「初見で感情をこめて読むのもいい練習になるよ」
と、ニッコリ笑うだけだった。仕方なく続きを読む。
「や、やめろ、直人、そんなとこ……アッ、こっちは嫌がってないみたいだよ、理久……クチュクチュ……直人、やめ……やめてくれ…あぁっ…可愛いよ、理久、メチャクチャにしたくなる……あぁ、直人、直人、もうやだっ……あぁ、んっ……」
「はい、ストーップ」
パンパン、と遠藤さんが手を叩いた。終わった、と僕はほっとする。恥ずかしくて顔が火照り、びっしょり汗をかいていた。まわりからクスクス笑いが聞こえた。もーヤダ。
「萎えるわ、ヘタクソめ、そんなんで興奮できるか、バカ」
遠藤さんが本を取り上げ、それでパシンと僕の頭を叩く。自分が読ませたくせに。
「耳障りなもの聞かせてゴメンね。こいつ、新入りで、素人以下のクズなんだ」
優しい声で甘く微笑む。ファンの二人はうっとりそれに見惚れていた。この口と性格の悪ささえ改善できれば申し分ないのにな、遠藤さんって。
「じゃあ、俺たちは練習するから。君たちは寄り道せずにまっすぐ家に帰るんだよ。ナンパされてもホイホイついてっちゃ駄目だよ」
遠藤さんは二人を出口まで見送り、
「また新しいドージンシが出来たら見せてね。今度は俺と直人で読んであげるよ」
と手を振って二人を送り出した。バタン、と扉を閉め、ガチャッと鍵をおろし、はぁーと溜息をつく。
「よし、練習再開!」
振りかえった遠藤さんの表情は一変して厳しいものにかわっていた。それだけで稽古場の雰囲気が引き締まるからスゴイ。
休憩前までやっていた場面の続きから。みんながそれぞれの持ち場につく。
練習が終わったのは日付がかわる直前だった。
次の舞台公演まで一ヶ月を切った。台詞や動作の細かい手直し、音楽や照明の打ち合わせなど、だんだん内容を煮詰めていく。
劇団「ぼくら」にはパトロンがついている。次の公演を行う小劇場「オペラ座館」のオーナーがそうだ。誰もオーナーに会ったことはない。連絡の窓口になっている井出さんも、その声すら聞いたことがないという。連絡を寄越すのはいつも秘書と名乗った若い男で、最初「ぼくら」のスポンサーになりたいと言って来たのもその男なのだそうだ。
スポンサー契約をしたものの、向こうはただお金を出すだけで企業名を名乗らない。定期的に「ぼくら」の舞台が見られるならそれで構わないと言うのだ。どこの足長おじさんか知らないがたいした道楽だと思う。しかし「ぼくら」の舞台に惚れるとはなかなか見る目がある。そしてなかなか、センスも良い。
オペラ座館はその名から連想する通りパリのオペラ座を模して作られた劇場だった。もちろん規模は縮小されているし、中の構造もオリジナルだが、外観も内装もこだわり抜かれた装飾で、中に足を踏み入れた者から言葉を奪ってしまう迫力がある。
先日初めてこの劇場を知った僕も思わず感動した。これだけでオーナーの足長おじさんに好感を持った。
オペラ座館の舞台を踏めるのは限られた者だけだ。足長おじさんが気に入った劇団しか利用を許可されない。オペラ座館で公演したことがあるということが一つのステータスになっていた。
そことスポンサー契約している「ぼくら」は、業界で大注目の劇団ということになる。そこに入れた僕はなんてラッキーなんだろうと今更ながら喜びを噛み締めた。
もうすぐ本番なのでオペラ座館での練習がメインになる。僕も皆も最高の作品を作るために朝から晩まで練習に明け暮れた。
期末テストを終えた現役高校生の菅原君も合流した。彼は目を見張る美少年で、たまたま「ぼくら」の舞台を見に来ていたところを遠藤さんにスカウトされたらしい。彼だけは特別待遇で、とりあえず今は学業優先ということで、遅刻も欠席もなんでもあり。
遠藤さんがそれを許したので、他の誰も文句を言わない。それに菅原君は声が素晴らしく綺麗で、おまけに美少年ときているから、舞台に立っただけで観客を魅了してしまう天賦の才能を持っていた。
前の公演はローマの兵士と奴隷の話だったのだが、奴隷役の菅原君が舞台に登場しただけで会場のあちこちから感嘆の溜息が聞こえた。
この舞台のために三ヶ月かけ体を作り上げた兵士役の遠藤さんと菅原君が接近し、並んで立った時は、妖しいまでに美しい二人に場内が騒然となったほどだ。
菅原君は土日祝など学校が休みの日限定で舞台に立っている。高校を出たら大学へ進むらしいが、大学卒業後は「ぼくら」で本格的に舞台をやれ、と遠藤さんから誘われている。菅原君はそれを曖昧にはぐらかしている。クズだのノロマだの言われている僕からしたら、そんなに熱心に誘われるのは羨ましい限りだ。
菅原君を入れて通しで稽古が始まった。演出を手がける井出さんが客席から駄目出しをする。井出さんが遠藤さんに駄目出しをするところは一度も見た事がない。それだけ二人の息はピッタリでお互いを信頼しあっているのだ。
素晴らしい舞台になるだろう。練習を見ていたらそんな予感に体が震えてきた。出番を待つ菅原君が武者震いする僕に気付いて「折尾さん、震えちゃってどうしたんです」と声をかけてきた。
僕より先輩なのに年上だからという理由で敬語を使ってくれる。僕も敬語で話しかけていたらタメ口でいいですよと言ってくれた。性格もいい子なので僕はこの子が好きになった。
「だって今にもお客さんの拍手と歓声が聞こえてきそうで」
震える手を菅原君に見せた。
「今からそんなに興奮してどうするんです。まだ始まってもいないのに」
クスッと笑って菅原君が僕の手を両手で包みこんだ。細くしなやかな指。思わずドキリとしてしまう。ドカドカと足を踏み鳴らし、舞台袖にはけてきた遠藤さんがバシンと僕の頭を叩いた。
「新入りのくせにおしゃべりとは、いい度胸だ。そんなにつまらないか?」
「ちっ、違いますよ!」
慌てて否定すると、まわりから「シーッ、静かに」と注意された。声をひそめ、
「逆に緊張して震えてるくらいなんですから」
「緊張したらマリとイチャつきたくなるのか、お前は?」
「い、いちゃついてなんて!」
「マリじゃなく、マサトですよ。その呼び方、やめてくれません」
隣で菅原君が不満そうに言う。真里なのでマリ。そう呼ぶのは遠藤さんだけだ。菅原君は、何度もやめて欲しいと言っているのに遠藤さんはやめない。そういう性格の人だからだ。
僕と菅原君を無視して、遠藤さんはまた舞台へ戻って行った。一旦舞台に立つとまるで別人になってしまうから本当に遠藤さんは役者に向いているのだと思う。容姿端麗で才能もある。それを見抜いたから井出さんも一年かけて遠藤さんを誘ったのだろう。
「ほんと遠藤さんって人の言うこと聞かないですよね」
呆れたように菅原君が言った。僕は苦笑する。
「だけど名前で呼ばれるだけ羨ましいよ。俺なんて新入りとか雑用係って言われて、いまだに名前を呼ばれたこと一度もないよ」
「ほんとですか? 人としてどうかしてるよ、あの人」
と腰に手を当てた菅原君が溜息をついた。こうやって僕の愚痴を聞いてくれる存在がいるだけでだいぶ心が慰められる。
午前中の稽古が終わり、昼休憩になった。みんなが外へ出かけ、オペラ座館に一人残った僕はポツンと舞台の真ん中に立っていた。
オペラ座館の座席数は400ちょっと。二階にボックス席が一つあるが、そこはオーナー専用なのだそうだ。公演があるとそこから観劇しているらしいが、その姿を見たものはいない。オペラ座の怪人みたいで素敵じゃないか。そこへ通じる道は誰も知らない、見つけられない。そういうところも謎めいていて、ますますこのオペラ座館が好きになった。
いつか僕もこの舞台に立ちたい。観客を前に演技をしたい。僕が味わった感動を今度は僕がお客さんに与えたい。
コホンと咳払いし、発声練習をする。稽古場でするのとは気分が違う。いつもより声が出ている気がする。調子付いて練習に熱が入る僕の耳に、
「ホラ、猫背になっているぞ」
低い男の声が聞こえた。一瞬、空耳かと思ったが、
「やめないで続けたまえ」
また男の声が聞こえ、僕は当たりを見渡した。団員が戻ってくるにはまだ早い。ここには管理のひと以外誰もいないはずだ。その人は初老のおじさんで、こんな低く落ち着いた声じゃなかった。
「誰ですか」
なんだか不気味になり声をかけた。
「そんな無粋な質問をするのか。ここをどこだと思っているのだ?」
芝居がかった大仰な言い方をする。やはり劇団の誰かだろうか。しかし声に聞き覚えはなかった。
「あなたは誰ですか。ここはいま僕たちが借りてるんです。関係者以外、立ち入り禁止なんですよ」
恐る恐る姿を見せない誰かに向かって言った。
「私は君たちの関係者ではないがここにいる権利を有する者だ」
遠くから響いてくるような声がそう告げる。もしかしてオーナーだろうか。そう問うと声はカラカラと笑った。
「ここはオペラ座だ。私はファントムと呼ばれることを好んでいる。出来れば君にもそう呼んでもらいたい」
やっぱりオーナーなんだ。金持ち爺さんかと思っていたけど、声はまだ若い……四十代位、だろうか。
「失礼しました。ファントム、僕に姿を見せてはくれないんですか」
「今はその時ではない。君も聞き知っているだろう、私がどんな醜い貌をしているのかを」
僕はファントムとの会話がだんだん楽しくなってきた。オペラ座館という場所が、この即興の小芝居を違和感なく成立させていた。遊び心のあるオーナーに親近感と好意を抱いた。
「では、いつになったら僕に会ってくれるんですか」
「焦りは禁物だ。君、焦りは禁物だよ。時がくれば私から君に会いに行こう」
「ほんとですか?」
「あぁ、約束しよう。明日、みんなが集まる前にここで待っていなさい。私が直々にレッスンをつけてやろう」
もしかしたらオーナーも舞台経験者なのかもしれない。レッスンには期待していなかったが、明日もまたオーナーと話が出来るのだと思うと今から楽しみだった。
「待ってます。必ず来てくださいね」
ファントムから返事はなかった。もうここにはいないのだろうか。二階のボックス席を見上げる。そこにも人影はない。しばらくあたりをキョロキョロしていたら、井出さんが舞台の上手から姿をあらわした。
「どうしたの、キョトンとした顔をして」
「あ、いえ……。井出さん、誰かに会いました?」
「どういうこと?」
「ここの劇場で、管理のおじさん以外に誰か見かけました?」
「見てないけど……、怖いこと言うね。やめてよ、俺、そういうの苦手なんだから」
怯えたように井出さんが自分の肩を抱きしめた。
騒がしい声とたくさんの足音を響かせて、昼食を済ませた皆も戻ってきた。
短い打ち合わせのあとまた通しの稽古が始まった。
この劇場にファントムが隠れていることは僕しか知らない。今もどこかで僕たちを見ているのかもしれなかった。僕は一人、姿を隠してしまったファントムを思い出してニヤニヤと笑っていた。ファントムは僕に話しかけてきた。僕はファントムに選ばれたクリスティーヌ・ダーエなんだ。この平和な日本のオペラ座館で血なまぐさい殺人が起きるはずはないが、誰も見た事がないオーナーと密会の約束をした、ということだけで胸が高鳴るというものだ。早く明日にならないかなぁ。
「なにニヤついてんだ、新人。気持ち悪い奴だなぁ」
出番を待つ遠藤さんが顔を顰めた。僕は慌てて顔を引き締める。
「俺に何かあった時はもしかしたらお前が代役を務めることになるかもしれないんだぜ。集中してみてろよ、バカが」
「ぼ、僕が、遠藤さんの代役なんて、そんな……!」
「本気にするなボケ。お前にやらせるよりそこらへんのおっさんにやらせた方が百倍マシだ」
吐き捨てるように言って遠藤さんは舞台へ出て行った。ヒドイ。いくら僕が演技の経験がないズブの素人だとは言え、あんな言い方しなくたっていいじゃないか。
プルプル震える僕の肩を正木さんがポンと叩いた。苦笑を浮かべ、
「お前、いい声持ってるし、そこらへんのおっさんよりはマシだと、俺は思うよ」
「……正木さん、それ、あんまりフォローになってないんですけど……」
ハハッと笑い、正木さんは自分の坊主頭を撫でた。
まぁ僕の実力は置いておいて、今は稽古に集中しよう。遠藤さんの代役は転地がひっくり返ってもないが、先輩たちの演技を見るのはいい勉強になる。
練習は20時過ぎに終わった。井出さんと遠藤さん、正木さん、小道具の高遠さんの四人はオペラ座館に残って打ち合わせ。他のメンバーはそれぞれ帰路についた。僕は本屋に寄って、ガストン・ルルーのオペラ座の怪人を買って帰った。
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